寿円佳宏 wonderland

スポーツ業界紙「スポーツフロンティア」に掲載しているコラムをブログで紹介。

杓子定規から革新は生まれない(2018年7月)

 4年に一度のイベントに、寝不足の日々を過ごした人は多かっただろう。今回気になったのが「VAR」ビデオ・アシスタント・レフェリーだ。通常はピッチに立つ審判によって判定が下されるが、新たに加わったのがVAR。各スタジアムに設置された33台のカメラから送られる映像をモスクワの通信センターで4人がチームとなりチェック。疑問があるとピッチの主審に無線で連絡する。新時代の審判は、判定を正確なものにするのに役立つ一方で、プレーが中断するなど反対意見も少なくなかった。「最小の介入で最大の効果」をというFIFAのコメントは、導入の苦慮を良く示している。前回のブラジルでもGLTというゴール機械判定技術(ゴールライン・テクノロジー)が導入された。この時はより正確な判定に役立つとすんなり入ったのだが、今回は小骨が喉に引っかかった様な違和感が残る。VARPK判定のハンドで多く使われた。ボールがゴールを割ったかどうかは疑問の余地がない。ハンドも手にあたれば100%反則なら問題はない。故意かそうでないか、見た目ではない要素が加わる所が難しい。もう一つ気になるのは、そうした判断を複数の人で行うことである。多くの人が関わることで精度が上がるのは確かである。しかし複数になるとみんなが無難な判断をしようとする側面も免れない。先日、美少女コンテストのグランプリは活躍しないという新聞記事があった。みんなの投票で決めるグランプリは新規性や意外性が捨てられる。審査員特別賞の方が活躍するというのである。もちろん同列にはできないが、考えさせられる所である。

 飛躍になるが、私達の仕事や日常生活でも行動履歴をトレースできる様になっている。業務の効率をあげたり、生活に必要なものを先回りして提示してくれる便利さの反面、監視されている無気味さもある。車の運転を例にしてみよう。60kmの法定速度を守るのは当たり前。しかし現実は、暗黙の適度なオーバーで車の流れは成り立っている。同じ様な事はたくさんある。世の中は黒白だけではうまく回らない。曖昧なグレーが必要だ。革新の種は、曖昧さに潜んでいる。行き過ぎた見える化と共に、見過ごされる権利が大切になる。